昭和２０年８月１５日、日本の無条件降伏により終戦を迎えた。長研の会員に、戦死・戦災死者はなかったが、戦災は、皆ご同様で、学生は三田の山に帰っても、殆ど授業はなく、OBはまだ四散していた。
それでも芝居は早々に幕を開けた。９月の東劇の「弥次喜多」を皮切りに、さあ、元の平和な歌舞伎が見られる、と思ったところ、占領軍GHQは、演劇の民主化を示唆、六代目は、１０月の帝劇で、水上滝太郎の「銀座復興」と、「鏡獅子」を出した。GHQは、上演狂言の３０％以上は新作にせよ、といい、１１月の東劇の「寺子屋」は中止させられた。
民主主義という言葉からは、占領軍の主体となったアメリカの政策の真意が読み取れず、左翼思想犯の一斉釈放と共に、共和制国家になるような錯覚を起こさせたが、天皇の戦犯免除に現れたように、占領軍は、日本人の保守性を見通していたし、それが、現在の日本の姿を生む基盤になっていたのである。とすれば、「寺子屋」禁止に代表されるように、封建社会の美徳を謳い、ハラキリ、仇討ち、身替りを称揚する歌舞伎狂言はまかりならぬとのお達しに動揺したのも、わずか数ヶ月の一時的なものであった。にもかかわらず松竹は、翌年の２１年１月に、歌舞伎狂言は大衆民主化に害があるから、以後、舞踊以外の一切の歌舞伎を自発的に上演中止する、というコメントを出した。今から見れば、何とも軽薄、軽率の極みである。
この歌舞伎禁止騒ぎは、マッカーサーの副官のバワーズの陰の尽力もあって、昭和２２年１１月の、幸、菊、吉、宗、梅玉という顔合わせによる「忠臣蔵」の通しによって、全面解除となったのである。
長唄人たちも、徐々に復帰、昭和２１年４月には、戦後第１回の長唄協会演奏会を開いている。会場は、有楽町の保険協会講堂。今は残っていないが、２階席を合わせて２００名足らずしか入らないお粗末なホールだった。焼跡東京には、こんな場所しかなかったのである。それでも、杵屋正邦、杵屋巳太郎（六世）、岡安栄蔵、杵屋佐之助、杵屋栄蔵、今藤長十郎の諸師が新作を出し、出演者も、研精、稀音、吉住、杵勝、鶴命、楽精、松永、杵栄、国光、佐門、杵六、芙蓉、富士田の各会が一番づつ出て、現在の協会演奏会に比べて、少しも遜色はない。
戦死者約２００万人、戦災死１００満といわれる太平洋戦争だったが、芸界で直接これに加わっている人は極く少数である。大阪の中村魁車は戦災死、２０年の暮れに文楽の吉田栄三と、杵屋佐吉が歿した。十二世片岡仁左衛門が、食料の恨みから、番頭に殺される悲劇もあったが、人的には、戦前と変わらぬ形で、戦後の混乱期を、それぞれに懸命に生き抜いていた。
さて、慶應の長研は、昭和２１年の６月に、復活の相談に集まった。闇市の名所である新橋駅烏森側の鳥料亭末げんの一室。集まったのは、伊三蔵、栄蔵両師に、創立時の会員で、卒業年度では最年長の福田元次郎君だが、呼びかけ人は、全くの新顔の学生乙部健治君、そして吉住小太郎（後の五世小三郎）師を同道した。乙部君の音頭取りで、復活第１回演奏会は、昭和２１年９月、これも焼け残っていた京橋公会堂（築地三吉橋際）で開かれた。
戦前からの会員８名に、この時から参加した会員が１０名もいた。乙部君が熱心に勧誘した人たちには、新しい日本になったのだから、何か日本的なものに接したいと入ってきた久鬼君のような初心者もいたが、既に七世家元杵屋勝三郎を継いでいた坂口守男君、日本芸能百般に精通していた栗田錦一君のような逸材がいた。
当時のことを坂口君は「栗田君の館林の実家は、古いのれんの割烹旅館で、お母さんが芸好きのため、戦争中、松永和風、常磐津松尾太夫、観世銕之丞、花柳壽慶などという、お歴々の芸人が世話になっており、自分も、慶應商工時代から親しくしていました。栗錦さん（栗田錦一さんを皆こう呼んだ）は、歌舞研のメンバでもあり、戦後、長研を始める時に、三味線弾きが足りないので、何となく私も引っ張り出されました。改まって長研に入ったという意識はないんです。僕は、学校が旧制から新制に変わる前後の年に当たるので、昭和２５年に押し出されて卒業でした。」と語っている。
栗錦さんは、帝国ホテルの宴会係に勤務していたが、後に、坂口君から乞われ、杵勝会の事務局長となり、昭和５４年、不幸な事故で逝去された。
勝三郎の名は、「船弁慶」「安達原」「靱猿」をはじめ数々の名曲を生み、幕末から明治にかけての長唄を発展させた、馬場の鬼勝と称された、名人二世勝三郎によって知られている。三世は病弱、四、五、六世は、全て女性だったのが、歌舞伎の市村亀蔵と六世勝三郎の間に生まれた坂口君によって再興された。
その坂口君の三味線をリーダーに、翌１０月、日比谷の野外音楽堂の市民音楽祭？で、５挺１０枚ぐらいの「越後獅子」を演じている。大正１２年の関東大震災の直後、焼け野原となった東京市民を励ますべく、沢田正二郎の新国劇が、この音楽堂で、野外劇の「勧進帳」を上演し、打ちひしがれた民衆に歓呼を以って迎えられたということだが、我々も、餓えにあえぐ大衆に、長唄を通じて奉仕することができたと大満足だった。
戦災で、顔全面にひどい焼傷を負わされた小泉塾長のお宅へも伺い「秋色種」「岸の柳」などを演奏、続いて、暮れの２２日、同じ京橋公会堂で、再び演奏会をもった。
当時、伊三蔵師は、疎開中の家族と離れ、ひとりで在京されていたが、東京では劇場がないため、旅廻りが多く、長研の指導をされる時間がとれなかったこともあって、乙部君が依頼した小太郎師が世話をしてくださっていた。１２月の演奏会の指導者には、芳村伊三蔵、吉住小太郎、松永鉄五郎の名が並んでいる。鉄五郎師は、六代目の踊りには欠かせなかった四世和風師の養子で、栗田君の師である。出演者は２２名、８曲の演奏だった。
この時の序開き、１０枚の「越後獅子」の中に、伊三蔵師の長男深山雅也君、小太郎師の次男吉住演夫君が、共に、普通部の少年で参加している。前者は、後に、杵屋栄三郎として、長唄界の新人としての活躍が期待されていたが、去る昭和６０年に、惜しくも病に逝かれた。後者は、花垣嘉秀の名で、現在、吉住派の三味線で活躍。また、杵屋勘次氏の子息の手島君も加わり、にわかに長研の全盛期に向かっていく。
世間一般は、吉田内閣に向けてストライキが続発、騒然としていた頃で、学生長唄のお客など、近親くらいなもの、それでも、坂口君、手島君の母上や、旅から帰ったばかりの伊三蔵師などがかけつけて聴いて下さった。
この年（昭和２１年）、早稲田大学にも長唄研究会が創設された。樋口政三君たちが中心になって、約３０名による創立総会を開き、小太郎師を指導者に、翌２２年２月、大隈小講堂で、第１回定期演奏会を開いた。
